表現を共有するためのことば

友人の個展に行ってきた。版画、特にメゾチントという技法の中で、心象風景を探求している作家だ。

ギャラリーの壁に静かに並んだ作品たちの、しかしフレームの中には動きが溢れているおもしろさ。ていねいにていねいに見つめては見失って、手探りしてはこぼして、繰り返して、ようやくそこに辿り着いたのであろうと思わせる光の分量。なぜその技法を用いて、なぜその素材を用いているのか、すごく伝わってくるように思った。

個展のDM

「光の分量」ということばを用いて感想を伝えたとき、彼女は「そのことばがすっと出てくるということに驚いた」と言った。彼女が受け取った「ことば」は、私が伝えた「ことば」なのに、私はあらためて彼女からそのことばを受け取ったように感じた。

思い返せば、私がこれまでいちばん影響を受けた師は、レンブラントを私に教えた人だった。レンブラントが残した光を、闇を、たくさん見つめて過ごした時期があった。その頃はデッサンや素描が好きで、木炭だのインクだので白黒の世界ばかり描いていた。その後ちょっとしたきっかけで写真をやるようになった。撮影そのものよりも印画の技法に魅せられた。

長いあいだ色彩にはあまり興味がなかった(つまりデッサンが大好きだったのに水彩だの油絵だのをやる気になれなかった)のも、光の表現に対する原体験があったからなのだろう。ということも、今ならわかる。

今はそうした事実はすっかり忘れて、以前ほんの少しだけやっていた経験以上でも以下でもない、という感じで生きている。友人の作品を通じて自分が見たものを言語化するまでは、ずっとそうだった。

一連の友人とのやり取りは、メタ認知の記述と呼べるものなのだろう。私たちはそれぞれ、別のやり方ではあるけれど、表現への取り組みを身体知として記憶している。だから同じものを見ることができた。友人に敬意を表して正確に述べるとするならば、彼女の持つ膨大な身体知のほんの一部分を垣間見るために必要なものを、私がギリギリ持っていたのだと思う。

お互いに交わす自己説明が、お互いの感性の中から体系化できるものを自然と拾い集めて整理してくれる。そうした会話を持つひとときは、私がもっとも愛する時間のひとつだ。

表現を共有するためのことばを、日々をより美しくしてくれるためのことばを、もっとたくさん紡いでいきたい。そのための方法論も、きちんと研究していきたい。友人の作品を楽しむのと同時に、そんなふうに思わせてもらった。

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