街のしくみが個人の感覚を支配する

真冬を過ぎると、なんとなく落ち着かない夕暮れが増えてゆく。真冬でさえも、夕方は比較的集中しづらい時間だったりする。

街のどこかで17時を告げるチャイムが鳴って、ふと顔を上げると陽が傾いていて、街の空気がおかえりなさいの顔をしている。多くの勤め人が仕事を切り上げられる時間でないにも関わらず、だ。

子どものための施設が近くにあると、さらにおかえりなさいの空気は濃くなる。「ばいばーい」や「またねー」の声。家を目指して走っていく靴音。揺れてランドセルに当たるキーホルダーの音。蹴られた石ころが転がる音。意識していようがいまいが、街が鳴らすチャイムや人々のさざなみが生み出す空気感が、私の感覚を満たしてしまう。

しかし実際のところ、さようならの匂いがする街で、ノスタルジックな気持ちを殺して仕事を続けるのは難しい。そんな時はタスクを一旦すぱっと切り上げて、家事だの雑務だのをやるとちょうどいい。また夜になったら作業を再開するのだ。

パリの夕焼け

人はある程度まで街のしくみに同化して生きることを強いられる。と言うとちょっと大袈裟かもしれないけれど、たとえばチャイムが部屋の中まで聞こえてきたりだとか、火の用心の拍子木が聞こえてきたりだとか、ハード面でもソフト面でも、暮らしにごく自然に入り込んでくるしくみはたくさんある。

自分が住む街のしくみや空気は、自分にとって好もしいものでないとつらい。街のしくみが個人の感覚を支配するのってある意味ではひどく暴力的だよな、と思うこともある。しかし、住む街を選ぶというのはそういうことだ。

さようならの匂いがまったくしない街というのも、味気ないしね。年を取っても、感覚を委ねて心地いいと思える街に暮らせていたらいいなと思う。

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