図書館の意義

私は図書館という存在をとても愛している。世の中がどんなにデジタル化しても、インターネットが発達しても、図書館はなくならないでほしいと思う。

もしかしたら古いタイプの考え方なのかもしれない。しかし、蔵書や古文書といったタイプのアーカイブを適切に分類・管理・提供してくれる場所は必要だと考えている。それを「サービス」と呼んでいいのかはわからない。ただ、知的活動を支える場所として、なくてはならない機能だと信じているのだ。

一時期、ツタヤ図書館への賛否が騒がれた時期があった。また、蔵書の保存や保護について問題があるのではないかと言われる図書館建築について言及されるのも時々見かける。トピックの移り変わりが激しい昨今、そのひとつひとつがすでに忘れられている気配さえあるけれど。

オルセー美術館の時計

図書館の価値には、ふたつの側面があると思う。ひとつは図書館に所蔵されている資料そのものの価値。もうひとつは図書館という存在そのものの価値だ。それが公共図書館であっても民間の図書館であっても同じことが言える。

私はアーカイブを偏愛している人間なので、蔵書の価値には大いに興味がある。しかしそれは新刊ベストセラーといった類のものではなく、古文書や土地ならではの郷土資料みたいなものに向いている。旅行などに行って時間ができた時には、土地の図書館や博物館に寄って歴史資料を見たりするし、図書館に行けばそうした書物が見られるという安心感は大きい。

図書館そのものの価値については、人によって求めるものが大きく違うのだろうと思う。私は以前から図書館の色合いによって使い分けたりしてきたので、各図書館に個性があるのはすごくいいと感じる。ツタヤ図書館についても、コンセプトとして作りたい場に寄せて振り切るのはありだと思っているし、それ自体に否は感じない。

ただ、すべてが同じタイプの図書館置き換わる=無個性であるというのは、やや受け入れ難い。本屋とかカフェの要素を内包した図書館があったら、確かに楽しい場所になるような気がする。けれど、それだけが本質ではない。そもそも図書館は本屋でもなければカフェでもないし、コワーキングスペースなわけでもない。

また、古い所蔵資料を処分するという考え方がすべての図書館に行き渡ってしまうのは怖い。所蔵資料を守り、誰の手にも取れるように管理し、系統だった分類と書架で人々に提供すること。私個人としては、そうした部分を大切にしてほしいという気持ちがとても強い。

個性を作る=差別化を打ち出すことを否定したくはない。従来からあるどんな仕組みでも、進化は必要だ。大事なのは、本当に大事な価値を捨ててしまうことを進化と呼ぶのは間違っているのではないか、という点である。図書館ごとに強化するポイントを変えるのならば、せめて自治体内の各図書館で連携を取って、パラメータ調整をしてほしい。それができるのが公共図書館の強みなのではないかと思う。

話は変わるが、CiNii が電子図書館の事業を終了し、オープンアクセスを中心とした学術情報の発見をサポートするサービスとしてリニューアルする旨を発表した。今後どうなっていくのかまだ予想できていないけれど、こちらもいい方向に行ってくれるといいなと切に願っている。

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