自分のイデオロギーが誰かを殺す

善良なだけで「よい人」と呼ばれる時代ではなくなった。善良かつ社会的な感度が高いことが求められる。また、いままで「よいこと」とされていたことも、今では形を変えてしまった。かつて善良であったはずの人たちは、自分たちが善良であるという本人の意識はそのままに、他者からは「よい人」認定を外されているのだ。

かつで善良だった人たちは、自分のイデオロギーが誰かを殺すなんて考えたこともないのではないだろうか。自分にとって「よいこと」は誰にとっても「よいこと」であり、善良な思想の普及こそが何よりも「よいこと」だと思っている。

だから「よいこと」は「シェアさせていただく」のだろうし、たくさんの人がシェアする=声が大きくなっていくことはやはり「よいこと」なんだと確信する。それがSNSという簡易な増幅装置でインスタントに拡声されたものだとしても。

しかし彼らは、他人のイデオロギーが誰かを殺すことがあることについて、一度は考えたことがある人たちでもあるはずだ。誰かを殺すようなイデオロギーは「よくないこと」である。他人のイデオロギーが誰かを殺すことについて、善良な人たちはとても過敏である。「よくないこと」を世の中からなくすために、声を上げる。自分たちが上げた声が誰かを殺すなんて、想像もしないままに。

塔の岳の霧

誰にでも扱える簡易な増幅装置の仕組みを自分の力だと履き違え、多様性の意味を暴力的に無効化していくのは、極めて善良な人たちなんだと思う。自分のイデオロギーが誰かを殺す、なんてことを思いもしない善良な人たちが、互いに肩を組んで線を踏み越えるのではないか。

自分は多様性について常に考えている。小さな声を大事にできる。あらゆる違いに感度が高い。そう胸を張って言える気分の時には、気を付けた方がいい。そんな時は逆に視野が狭くなっているから。私のような人間はそもそも善良ではないので、生きているだけで人を傷付けてしまうのだけれど、そんな自分でも重ね重ね気を付けたいと思う。

自分のイデオロギーが誰かを殺す。それは遠い誰かの話じゃない。「自分」の話だ。

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